「君の神様になりたい」は、カンザキイオリさんが作詞・作曲したVOCALOID曲です。
カンザキイオリ「神様になりたい」に涙
カンザキイオリ「神様になりたい」を聞いて涙が出ました。
印象的な歌詞が、
君は 君が勝手に 君のやりかたで幸せになれる
(中略)
僕は無力だ 無力な歌で 君を救いたいけど
です。
この歌詞からは、救いたいけれど、救えない。
そして、「君には幸せになる力がある」と信じていると、解釈できます。
この歌詞は、大切な人に寄り添うヒントになっていると感じました。
人を救うのは祈りである
曲中で繰り返される「無力」という言葉から、苦しんでいる友達を目の前にして、救えると思うのは傲慢だと気づかされました。
救いの定義を、苦しみの状態から脱して幸せな状態に変わることとするのなら、変わる決意をするのは苦しんでいる当人です。
もし友人を救いたいと思う状況にあるならば、他者にできることは伝えることだけです。
つまり、人を救うのは祈りと言えるでしょう。
祈りというのは、大切な人が幸せになってほしいと願うことです。
結果論の一例で、幸せを願うことで、友人と一緒に過ごす空間が心地のいいものになるかもしれません。
幸せを願う気持ちを起点として生じる行動が、相手の変化への決断の力になります。
立ち上がる力を信じよう
立ち上がる力を信じましょう。
これは、アドラー心理学の、「自分の課題」と「他社の課題」を分けることに通じるものがあります。
相手の課題を自分の課題のようにとらえて、結果的に支配下に置くことになり、押し付けになってしまうことは、望ましくありません。
自分ごとにして、相手の課題を引き受けることは、相手が課題を解決する力は無いんだと、信じていないことと同じ意味になります。
相手に寄り添うことは、相手には、苦しむ課題を解決する力があると、信じることから始まります。
立ち上がる力信じることは、相手の力を尊重することになります。
具体的な提案をする友人になる
相手を信じて決断をゆだねる具体的な提案をすることで、苦しむ大切な人の力になります。
それは、言語だけではありません。
「落ち込んでいるように見えるので、あなたの傍にいてもいいかな」という気持ちで、言葉なく隣に座ることもまた、具体的な提案です。
なぜこれが提案なのかというと、相手の反応次第で、隣から去る選択肢を持っているからです。
もし、相手があなたの隣から立ち去ったなら、後を追わないという姿勢です。
自分が他者ににできることは提案までであり、決断するのは相手です。
大切な人が苦しんでいたら、力になりたいと思うことは自然でしょう。
ただその方法は、答えが無くて難しいものですよね。
苦しんでいる大切な人に寄り添うヒントが、「君の神様になりたい」には詰まっていました。
以上、『カンザキイオリ「君の神様になりたい」に泣。立ち上がる力を信じよう。アドラー心理学を彷彿。』のお話でした。
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